「相手は鏡」の私なりの意味
夫がこの病いになってから
夫は私の幸せを.私が自由になる事を喜んでいないと思っていた。
振り返れはそれは当然のようなことで、
自分自身が不幸と思えるときに、家族や他人の幸せをどこまで本心から喜べるだろう。
私自身がそれをわかったのがこの1年である。
この1年の原因不明の病の中、毎日が痛みと痺れで肉体を手放してしまいたいほどの日々が続く中で
キラキラした内容の全ては眩し過ぎて、目を背けずにはいられなかった。
肉体に苦痛のない.それだけの人でも羨ましかった。人生を恨めしくさえ思うこともあった。
これはきっと夫もそうであったのだと。
わかっていたつもりがそうではなかったと実体験で分かったのだ。
前回の記事「病いはギフト」でも書いたが
この病いは私にたくさんのギフトを与えてくれたように思う。
「相手は鏡」というフレーズが昔からしっくりこなかった私は、この病いを通してやっとその事が自分なりに腑に落ちた。
やっぱりそれは私の中にもあったのに
それを認めたくなかったのだと。
それは自分の中にはあっては嫌なものだったから。
そんな夫を見て嫌だと思っているのに自分の中にもそんな思いがあるだなんて否定したかったし、そもそも自分にはそんなところは無いと思っている訳だから。
自分はそんなところがないから夫の感情を嫌だと思っていたのだと感じていたから。
でもそれが違った事に心底気がついたという事である。
「相手は鏡」の解釈は人それぞれに違うと思う。
「人の振り見て我が振り直せ」と解釈した場合に自分にも同じようなところがないかなと深く内観できる人は良いが
私の場合はそこにマイナーな思いがついていたので引っかかりがあり、素直な解釈には至らなかった。我でありプライドだと思う。
人は歳をとるから柔軟になるのではなく、もちろん気力体力の衰えから反抗心や反発心が薄れて柔軟に.穏やかになるという事はあると思うが、それだけではなく
例えば 私の場合は病いだが、
人それぞれに、人生の過程においての様々な苦悩から その人なりの悟った結果が心待ちにつながっているのだと思う。
そして私にとってのもう一つの要因は、
たくさんの読書からじわじわと私の心に浸透したものもたくさんあったと思う。
人の幸せを喜べないと言うのは
例えばそれが親族であった場合は、私の場合は尚更 辛く苦しい。
愛着障害やHSPもあるとは思う。
でも やっと、その階段を1段上がれた気がする。
肉体は炎症を通して改善していくというが
心も同じなのだなと感じている。
このブログのタイトルを無意識で
「心の気づきブログ」としたところも
自分の潜在意識がそうさせていたのかも知れないと思うのと
それは自分が自分に与えたギフトなのだろうと改めて思う。
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